江戸時代、吉原と呼ばれる遊郭に、美しく名高い花魁、桜がいた。
桜は多くの客に愛されながらも、心の中には常に空虚な思いを抱えていた。
そんなある日、桜は道端で一匹の捨て猫を見つけた。
毛並みが乱れ、傷だらけの猫は、まるで桜の心を映し出すように虚ろな目をしていた。桜は思わず猫を抱き上げ、自身が住む妓楼(ぎろう)へと連れ帰った。
桜は猫に「小梅」と名付け、大切に育て始めた。小梅はすぐに桜に懐き、寂しかった桜の心に温もりを与えてくれた。
小梅との暮らしが始まってから、桜の表情は少しずつ明るくなってきた。客との会話も弾み、以前よりも多くの客を魅了するようになった。
ある夜、桜は客と酒を酌み交わしながら、小梅について語っていた。すると、客の一人が「猫を飼うとは珍しい」と声をかけた。
桜は「小梅はただの猫ではありません。私の心の支えであり、家族です」と答えた。客は桜の言葉に深く感銘を受け、桜への想いを新たにした。
それからというもの、桜と小梅は吉原でかけがえのない存在となっていった。桜は小梅と過ごす時間を何よりも大切にし、小梅は桜を母猫のように慕った。
「小梅はいいねぇ。姉さんにこんなに可愛がってもらえて」
「あらあら、何を言っているの。あちきは鈴のことだって可愛がっているではありんせんの」
「でも、姉さんは小梅を叱っている所を見たことがねえ」
「猫に叱っても仕方がありんせんでしょう」
禿(かむろ)の鈴は、頬をぷっくりと膨らませ、拗ねているようだった。
鈴は貧しい家から売られてきた子で、出自や境遇などが桜とよく似ていた。そのため、桜は鈴に対して、他の禿よりも少しだけ特別扱いしてしまうところがあった。
ある日、吉原で火事が起こった。
「旦那さん達、早うこちらへ」
桜は、客に向かって言った。客達は、桜の言う通りに急いで店の外に出る。
客に続いて、桜も小梅を抱いて逃げようとすると、2階から女の子の声が聞こえてくる。
「誰か助けてぇ…」
あの声は、鈴では…?桜は、2階の方に目をやると、鈴が小さな手を必死に振っていた。
「鈴!」
桜は、炎で覆いつくされようとしている店の中を凝視する。店内は、煙に巻かれ、中の様子を見ることができない。
「旦那さん、申し訳ありんせんが小梅を頼みんす」
桜はそう言って、小梅を旦那に託す。
「おい、桜!もう間に合わねぇ。行くな」
桜は、旦那の声を無視し、近くに置きっぱなしになっていた桶を持ち上げ、自らに水を掛けた。そして、躊躇することなく、煙に巻かれた店内に入っていった。
「あ、こ、小梅!」
小梅が旦那の腕の中をするりと抜け、桜の後を追い、炎の中に消えていった。
「鈴!どこにいるの?」
袖で口を押さえながら、前に進んでいく桜。煙で目の前が見えない。すると、小梅が足元にやってきて、桜を誘導するように前に進んでいく。
桜は、小梅の後をなんとかついていく。2階へ続く階段は、今にも倒壊しそうだ。なんとか2階に上がると、咳き込む音がかすかに聞こえてくる。
「鈴…!」
部屋の窓際で横たわる鈴。小梅と桜は、鈴の方へ近づいた。
「姉さん…」
鈴は意識があるようだが、煙を吸ってしまったようで、苦しそうだった。
窓の外から救助にきた火消の男達がなにやら大声で叫んでいる。
「そこから飛び降りろ!受け止める!」
桜は頷き、鈴を先に飛び降りさせることにした。
「鈴、あともうひと踏ん張り。あの人達が受け止めてくれるから」
鈴は、力を振り絞って立ち上がり、窓枠に手を掛け、飛び降りた。無事男が受け止め、なんとか脱出することができた。
炎がすぐそこまできている。急がなければ。桜が小梅を抱き上げる。すると、床がミシミシを軋み、足元が一気に抜け落ちてしまったのだ。
「きゃーーーー」
火災が鎮火した後、桜と小梅の姿は見当たらなかった。
「姉さん、ごめんなさい…」
鈴は、自分を強く責めた。自分が逃げ遅れたせいで、桜は亡くなってしまったのだと。
火事が起きてから数週間後。
桜と小梅の二人が一緒にいるという目撃談が数多く寄せられた。
人々は桜と小梅が永遠に幸せに暮らしていると信じ、二人の物語を語り継いだ。